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ラ・ラ・ラ・メディテーション

ラ・ラ・ラ・メディテーション

自己責任―変容への鍵(マンガラ)

自己責任―変容への鍵 (マンガラのエッセイ)
~ハートの声を聞くとは、自分の感じている真実に責任をとること~


人も責めず、罪悪感を持たず、期待も妥協もなしに生きる

 自己責任という言葉には、人生におけるもっとも重要な、深いレッスンのひとつが含まれています。それは、人生のさまざまな場面において、私たちの行動の本質的な変容の鍵を握っています。
 実際には、自己責任とは、何を意味するのでしょう。
 それは、人を責めず、また罪悪感を持たず、期待も妥協もなしに生きることです。正しいことをしようとしたり、良い人であろうとしたり、その場の調和を保とうとしたり、すべきだからという理由であることをしようとする、という生き方に別れを告げることです。実際こうした動機は、私たちの人生のほとんどを支配しています。けれども自分に責任を取るとは、教わったとおりではなく、自分自身の真実に基づいて、自分自身のハートにしたがって生きることなのです。
 
 けれどもそうしたら、みんなが好き勝手を始めて、他人のことにかまわなくなってしまうのではないか、そうしたら、世界中が、秩序も何もない、メチャクチャな混沌状態になってしまうのではないか。そういった恐怖はたしかにあるでしょう。まさにこの恐怖ゆえに、社会は私たちに、正しく行動することがいかに大事かということ、そして、こうして世間に認められた基準にしたがって生き、良い人としてふるまうことで、しかるべき報酬を受け取ることができると教えているのです。

 私がセッションでのツールのひとつとして使っているヌメロロジー(数秘学)によれば、国であろうと、町であろうと、名前から導き出される数から、その土地が持っているエネルギーを理解することができます。日本の数秘学的なエネルギーは、無条件に愛することと与えること、ハートの真実に責任を取るというものです。実際のところ、これは、今回のテーマすべてをカバーしていると言えるでしょう。
 
信念体系のルーツ
 
 私たちは生まれたときから、どのようにふるまうべきかを、親やまわりの人から学んでいきます。私たちはこうしたことを、喜んで、すぐにし始めます。というのも、それによって、欲求や欲望を満たすことができるわけですから。それにはまさに、サバイバルの(生き残りを賭けた)問題です。世話をしてくれている人を喜ばせなければ、愛や食べ物、そして生きるのに必要なものを得られないかもしれないのですから。そこで身についた行動様式は、大人になっても続きます。欲しいものというのが、認められることであろうと、愛であろうと、アイスクリームであろうと、変わりはありません。大人になっても、世間や家庭にふさわしい、公認された行動というプログラムは、私たちの安全を保障してくれる基本的な様式なのです。そして特に、日本のような社会では、人から「浮く」ことや、「つまはじき」にされることは、もっとも大きな恐怖のひとつでしょう。他の人と同じでなくては、という、非常に大きな無言のプレッシャーがある。それはつまり、認められた基準にしたがって行動すべきだということです。

 みんなが自分をわきまえ、どのようにふるまうべきかを心得ているという状態は、社会が秩序を保ち、円滑に機能するためには、良いことでしょう。けれども自分自身を知り、敬うという点から見れば、それは致命的です。自分自身を知り、敬うことによってのみ、本当の自分を発見し、個としての自己へと成長していけるのですから。私たちが、社会の歯車のひとつであることに満足しているあいだは、社会に受け入れられ、適応するということが最優先事項であることに、何の問題もありません。
 けれどもいったんそれでは十分ではなくなり、私たちの内なる存在が自然に進化していく過程において、そのように制限され、条件づけられた生き方に不満を感じると、自己責任の課題が、頭をもたげ始めるのです。

 それは、決意というよりは、意識のある地点において、必然的に起こってくることです。自分が本当に感じていることにチューニングを合わせ、自分自身のハートの声に耳を傾け始めると、自分の深い真実に基づいた行動をしないときに現れてくるネガティブなフィーリングを無視することが、どんどん難しくなってくるのです。そんなとき、条件づけされたマインドは、したくないことをすることに気が進まなかったり、恨みや怒りを感じてしまう自分を受け入れることができず、自分はどこかおかしいに違いないとささやきます。そうなると、私たちは罪の意識から、そうしたフィーリングを抑圧し、こうすべきだと考えるやり方で行動しなくてはと、自分にむち打ったりもするでしょう。これは実際、不愉快な地点であり、ある意味で、人生において選択を強いられるような地点です。そして、これはたくさんの日本の人が今、直面している状況でもあるでしょう。

自分を悪者にするか…
 
 感じていることを抑圧することから、ほとんどの肉体的な病気が生まれてきます。感情はエネルギーであり、そのエネルギーは、どこかへ向かわざるをえません。もしも感じることを拒めば、それは不自然なかたちで肉体に押し込められることになり、病気をもたらすことにもなる。だからこそ大きな病気は、それを活用するならば、成長のためのとてもすばらしい機会になりうるのです。からだの症状が、マインドの条件づけされた観念よりも深いものに責任を取るよう、私たちに強いるのです。けれども成長するに当たって、つねにこうしたつらく、大きな代償を払う必要はありません。入院する前でも、起こっているプロセスをつかまえる知性と気づきを持つことは、たしかに可能なのです。
 実際に感情を感じ、そして感じたことに対して自分を責めるという状態が次にやってきます。そしてこれは、私たちのほとんどが、つねにしていることでもあります。条件づけられたマインドは絶え間なく、こんなことを感じるべきではない、良いと教えられた感情だけを持つべきだとささやき続け、もしそうでないと、自分を悪者にしてしまうのです。悪い息子や娘、悪い親、悪い夫や妻、悪い友達、悪い部下等々、あげればきりがありませんが、何であろうと、マインドが許容する以外の感情を感じたとき、私たちは自分を下劣な存在だと判断します。そして罪の意識を持ち、自分を責め、それを埋め合わせるために、さらに一生懸命良い存在になろうと努力し始めます。
 けれどもこうした動機からの「愛に満ちた」行動や行為は、私たちのハートや真実からのものではありません。つねにぎこちなさが残る、無理強いされた行為なのです。義務や責任、あるいは、そうすべきだと思うことをしたりはしますが、すべては自分を悪く感じたくないがためなのです。そして、そういった義務感からの好意の受け取り手になったことが、あなたにもきっとあるでしょう。それを素直に受けるのは、難しいものです。実際、罪悪感は、私たちを過去にしばりつける大きな要因のひとつです。それは、私たちが本当に感じていることに責任を取ることを妨げる、楽な逃げ道でもあります。

あるいは、人を責めるか…
 
 こうした進化の段階において、人を責めるということもあるでしょう。感じていることに対し、自分の代わりに、人を悪者にするのです。人がすべきことをしてくれないから、自分は怒っているのだ。気分が悪いのは、あの人のせいだ、あんなことをしたのだから、というわけです。あるいは、もっともよくあるのは、人が自分の期待を満たしてくれなかったということでしょう。この戦略は、往々にして、かなりきつい独善的な考えとともにやってきます。自分はすべきことをしている良い伴侶や親、良い部下等々なのに、相手が自分を認めてくれないとか、見返りにしてほしいと思っていることをしてくれない、というわけです。

 けれども、このことをもう少し深く見たならば、自分の良いふるまいや行為は、契約に基づいているということが見えてくるでしょう。もしもあなたが私に対して良い夫でいてくれて、私の思いどおりにふるまってくれるならば、私はよい妻でいましょうというわけです。あるいは、あなたに優しく、思いやりをもって私に接してもらいたいから、あなたに優しくしましょうということかもしれません。こういったたぐいの良い行動には、必ず落とし穴があります。それは期待であり、欲望なのですから。こうした行動は、クリーンな、無条件のものではありません。何かを返してもらいたがっているのですから。そして期待が満たされないと、相手を責めることになる。私は正しいことをしたのだから、今度はあなたもそうすべきだ、契約を果たすべきだというわけです。

愛に満ちた「ふるまい」は愛ではない
 
ほとんどの関係性は、こうした糸によって織られ、愛を疎外しています。私たちは、愛に満ちたふるまいをすれば、愛に満ちた存在になれると思いがちですが、それは本当ではありません。愛に満ちたふるまいは、あくまでも「ふるまい」であって、身につけた演技であり、愛とは何の関係もないのです。子どものころに身に着けた、自分を安全に保ち、欲しいものを手に入れるための行動様式をたんに続けているだけであって、その行動はマインドからやってきています。ほんとうに愛に満ちるためには、ハートの声を聞く必要があります。

ハートの声を聞くとは
 
 それでは、日常生活において、このことは実際に何を意味するのでしょうか。
 本質的には、頭からハートに移るということです。身についた安全な行動から、真実を生きる危険のなかへと移っていくということです。それはたしかに危険なので、私たちのほとんどは、実際、そうせざるを得なくなるまでそうしようとしません。今まで、善良で、愛に満ちた人であろうと努力してきた、それが、あまりに苦しくて、もう続けることはできないという地点に至る。それは罪悪感と怒りの板ばさみの地点です。もしもすべきことをしなければ、罪悪感を感じるし、すれば怒りになる、そして期待したものが得られなければ、他人を責めることになる。こうした地点で、反動から、もう誰にも何も与えまいと決意することもあるでしょう。というのも、誰も自分に感謝してくれないし、見返りに何も得られないとなったら、いったい何の意味があるのか、というわけです。けれどもそうなると、怒りからハートを閉ざしてしまうことになり、苦々しい愛のない人生を送ることになってしまうでしょう。あるいは、この地点で、自己責任という課題に直面することになるのです。

 自己責任を取るための第一歩は、誰も自分の期待を満たす義務はない、という単純な真実を認めることを意味します。それは、自分の問題なのです。もしも注意深く見るならば、どれほどの期待が、ありのままの現実を見ることを邪魔しているか、気づくことができるでしょう。ある意味で、私たちが期待したものと、実際に得るもの、起こることのあいだには、必ずギャップがあります。それは必然的なことであり、たんなる事実です。期待は、頭の中の観念にすぎません。期待があればあるほど、あるがままの存在を見て、それに感謝することは難しくなるでしょう。そして、ほとんどの場合、抱いた期待が満たされないと、気分が悪くなるのです。これが分かると、期待なしに、見返りなしに何かを与えたり愛したりすることがどういうことなのかを見始めます。
 これは、自分のことをまったく考慮に入れないマザー・テレサのような人になるということではありません。それは、たぐいまれな魂にとっては真実の生き方でしょうが、大多数の人たちにとっては、利己的な殉教者となってエゴを満たそうとするという、教わった役割を自分に押しつける古い生き方のくり返しにすぎないでしょう。
 そうではなく、どうすべきか、すべきでないかという観念を脇にどけ、自分のハートにとっての真実を見つめ、無条件に、どんな見返りも期待しないで、そこから与えたり、それを分かち合ったりする用意をする。そして、その結果に責任を取る準備をするということです。

自己責任と無責任
 
 この最後の部分は、よく誤解されますが、他人のことや、結果を考慮しないで好きなことをするのは、自己責任ではなく、無責任です。自分のために責任を取るということは、他人に対する影響や、その結果に十分意識を持ちつつ、自分にとっての真実を見つめるということなのです。例をあげてみましょう。
 
 ある週末、妹が引っ越しをすることになり、あなたはその手伝いをする約束をしたとしましょう。ところが数日前になって、同じ日に、あなたが何年も前からやりたいと思っていたことに誘われたとしましょう。それは、めったにないチャンスです。もしも約束をしたからという理由で予定どおり引っ越しを手伝えば、おそらく、ほんとうはしたいことがあったのに、という思いにさいなまれることでしょう。手伝うという名目で動いてはいても、不機嫌で、うわのそらでそこにいることになるでしょう。そして、心のどこかで自分が払った犠牲に対して、妹に念入りに感謝してもらいたがることでしょう。けれどもそうなると妹も妹で、あなたは実は手伝いをしたいわけではないということを察しないわけにはいかず、たぶん心からありがたいとは思えないでしょう。こうした場合、あなたは、ふたりの関係にひびが入るような、長く尾を引く悪感情を持つことになりかねません。
 その代わりに、手伝うという約束を破って、自分のしたいことをしたならば、罪悪感に悩まされ、妹のことが気になって、自分のしていることを楽しめないかもしれません。そしてあなたの罪の意識ゆえに、妹は間違いなくあなたのしたことを責めるでしょう。罪悪感と非難は、つねに表裏一体です。それは実際、同じエネルギーのふたつの極なのです。ですからこうした状況では、どちらにしても、あなたには勝ち目はありません。

 こうした膠着状態から抜け出す唯一の方法が、自己責任です。自分にとっての真実は何かを見て取り、その結果に全面的に責任を取ること。この状況において、あなたは結局自分のしたかったことを選ぶかもしれません。けれどもそのとき、それは妹の気に入らないだろうということ、そして彼女が腹を立てるのも無理はないということを視野に含めつつ、そうするのです。そして、こうなったからには、今後自分が何かを頼んでも、妹はその約束を果たさないかもしれないということを受け入れるということでもあります。そしてこういったことを見据えつつも、これがこの状況においての自分の正直な気持ちだということを認めるのです。そうなったとき、罪悪感はありません。そしてあなたがクリアでクリーンなかたちで状況を説明したとき、妹はやはり気に食わないだろうけれども、あなたにとっての真実を受け入れることができるかもしれません。あるいは、こうした結果を考慮したあとで、あなたは、やはり約束どおり彼女の手伝いをすると決めるかもしれません。けれどもそこには、怒りも期待もないでしょう。ですから、あなたはどちらを選ぼうとも、クリーンでクリアなエネルギーでそうすることになります。それこそつねに、自己責任がもたらしてくれる成果なのです。
 
 このように見てみると、事は非常に単純に見えますが、実際の人生でこうしたことを実行していくのはそれほど楽なことではありません。自分があることをしたいと思っているのか、あるいはすべきだと思っているのか、見分けることが困難な場合が多々あります。私たちは、自分の願望や真実を知っている部分とのつながりをなくしてしまっているのです。そんな状態で、どうやって自分に責任を取ることができるでしょうか。
 
 こうしたことを探っていくのに、タロットやヌメロロジー(数秘学)は計り知れない価値を持ちます。
 ヌメロロジーは、自分がどのように、またどうしてある一定の動き方をするのか、理解することを助けてくれます。そして、人生のどの分野において、あるいはどの時期に、この自己責任というテーマがもっとも大きな影響を持つのかを教えてくれます。それは、自分が誰であり、今、どんなところにいるのか、また、ある特定の時期に、どんな学びの状況や環境へと引きつけられていくかを教えてくれる地図のようなものなのです。

タロットと自己認識
 
 そしてタロットは、自己認識を促してくれる、もっとも貴重なツールのひとつでしょう。タロットカードは意識のツールとして正しく使われるならば、マインドにある表面的な保全のパターンの奥にある、さらに深いものを見るためのテクニックを提供してくれます。それは私たちに、自分の真実と結びつく手段を与えてくれます。先ほど述べた例について言えば、非常に短い時間で、罪悪感と義務感から当然やってくるであろう混乱状態から抜け出して、自分が本当に望んでいることは何なのか、そしてそこからどんな結果が現れてくるのかを理解でき、クリアな選択をすることが可能になります。いたずらに不安になったり、動揺しなくてすみますし、他人との関係を台無しにする危険を回避することもできます。こうしたツールは、頭のなかの条件づけされたプログラムから、ハートの真実へと動いていく道の上での、個人的なガイドのようなものです。そしてタロットは、私たちに用意できていないことや実行できないことを見せることはありません。それは、あなたはこうすべきだと告げる、外にある権威の声ではなく、どうしたらいいのか、何が自分にとっての真実なのかをすでに知っている自分自身の意識の深い部分につながるための手段です。 
 
 とはいえ、こうしたことは、一度にすべてが分かるというものではありません。たいていの場合において、これは一生の学びです。けれども、いったん問題を認め、この方向に意識的に進み始めれば、こうした生き方の成果は、すぐに実感できることでしょう。
 そして人間関係も、まったく違ったかたちで機能し始めることでしょう。ある状況や人は離れていくかもしれないけれども、私たちの真実に基づいた新しい人や状況が引き寄せられてくることでしょう。そしてこのフィーリングを味わえば味わうほど、それがもっと欲しくなることでしょう。そして、自分にとってほんとうに大切だったのはこのことだったということ、自分はこのために生まれてきたのだということが、ますます分かっていくことでしょう。そしてこうした認識が、自分に責任を取るという、果てしない道をさらに歩んでいくための勇気を与えてくれるはずです。




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